1980年8月18日(月) 初めての「寝台列車」

SL=蒸気機関車の営業運転終了で、そのブームも終焉となった昭和50年代の初め、カメラを手に駅を走り回っていた子どもたちの興味は「ブルートレイン」に注がれていた。
 ちょうど西村京太郎のトラベルミステリーと呼ばれる推理小説がブルートレインを舞台にして有名になったのと歩調を合わせる感じだった。

自分もその例外ではなかったが、そのブルートレインに乗車する機会はなかなか訪れなかった。
 鉄道写真を撮り始めて2年余りが過ぎて、中学生となった頃に、ようやくその機会が訪れた。

とはいえ、お金が無かったので、寝台特急ではなく、少しでも安い寝台急行が、その初めての機会となった。

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初めて関東方面へ旅行した1980(昭和55)年の夏、往路は「大垣夜行」と呼ばれる大垣発東京行きの夜行鈍行列車を利用したが、帰りは寝台急行「銀河」に乗ることにしたのだった。
 8月18日の夜、東京駅で待っていると、少し暗いブルー色の20系客車が滑り込んで来た。が、最後尾に行ってみて驚かされたのは「絵入りマーク」で「銀河」と表示されていたことだった。

それまで、テールマークは「急行」とだけ書いてあったのだが、いつの間にか変わっていたのだった。
 当時はインターネットなんてある訳もなく、情報の入手は限られていたが、「銀河」が絵入りマークに変わったことは、9月21日に発行された鉄道雑誌にやっとのことで載っていた。そういう時代だった。

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車内には狭い52cm幅の寝台が3段になっていた。それでも利用者は多く、8割以上は埋まっていた。
 当時、中学生だった自分でも、明らかに寝台は狭かった。比較的、狭い所で寝るのが平気で、寝相も良い自分は大丈夫だろうと思いつつも、寝相の悪い人は寝台から落ちてしまうのではないかと感じた。

寝台列車とはいえ、急行「銀河」の運転区間は新幹線が3時間ほどで走り切ってしまう東京-大阪間。自分は京都で降りるので、なおのこと乗車時間は短い。
 東京を出て、横浜を出た頃には早くも車内には寝息が聞こえていたが、初めて乗るブルートレインということもあり、興奮していた自分は殆ど眠ることは出来ず、最後尾の展望スペースで流れ行く夜の車窓を楽しんでいた。

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この時代にして、既に旧式の寝台列車だった20系の何が驚かされたかと言えば、ドアが「手動」だったことだ。
 閉まるときは自動なのだが、開けるのは手動。この時代、見るからに古い旧型客車ならいざ知らず、憧れのブルートレインでドアが手動というのは、子ども心にもどうかと思ったが、実際、手動であることを知らず、駅に着いても、いつまで経ってもドアが開かず、待っているうちに列車が出発してしまい、降り損ねた客もいるという話を聞かされた。そのため、降車時のドアは手動である旨を盛んに車内アナウンスで流していた。

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京都駅に到着し、一目散に最後尾へ走る。
 テールサインを輝かせ、丸く優美な20系が出発していくのを見送っていると、どこか旅の風情を感じさせたが、それは他のどんな夜行列車にも劣らないものだと、今でも思う。

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