1987年12月末 下津井電鉄

岡山県の倉敷市と言えば、大原美術館のある美観地区を思い浮かべる人が多いが、瀬戸内海に面した海辺も含まれる。

その海沿いにある児島という地区に、自分の母方の実家があり、親戚も数多く住んでいたため、子どもの頃には休みの度に帰省していた場所だった。

かつては浜辺沿いに塩田が広がっていたが、1970年代後半には次々と姿を消していった。一方では、ジーンズや制服などを作る紡績工場が数多くあることでも知られている。

その児島から、香川県坂出と結ぶフェリーが発着している下津井まで、ローカルな私鉄があった。その名は下津井電鉄と言い、レール幅が762ミリしかない「軽便鉄道」として鉄道ファンには有名だった。

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明治以降、鉄道の黎明期には、日本各地で鉄道建設がブームになったが、資金が集まらず、計画が頓挫していた所も数多くあった。そんな中で、規格を大幅に緩和した「軽便鉄道」は建設費が安く済むこともあり、一気に普及し、全国に鉄道網が広がった。

とはいえ、中身はトロッコ鉄道の延長線上にあるようなもので、スピードは出ず、乗り心地も良いとは言えない。新幹線だと1435ミリ、在来線だと1067ミリあるが、軽便鉄道は主に762ミリや610ミリという線路幅の狭さなので、車体も小さかった。

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多くの軽便鉄道は、戦後になって道路網が発達し、クルマ社会になるのと並行して次々と廃止されて姿を消していった。

下津井電鉄も、かつては国鉄宇野線の茶屋町駅と下津井を結んでいたが、乗客の減少などにより、茶屋町と児島の間がオイルショックが起こる前に廃止されていた。が、児島と下津井の区間は、並行する道路が整備されておらず、鉄道の存在意義があるとして、国鉄と接続してない末端区間であるにも関わらず、廃止されずに残された。(児島には大きなバスターミナルがあり、そこから倉敷や岡山、宇野とバスが結んでいた)

20人に満たない社員で鉄道部門が運営され、細々とではあるが長く黒字経営を続けていた。1980年代に入ると鉄道部門は赤字に転落したが、黒字だったバス部門の利益でカバーしていた。

同じ頃、瀬戸大橋の建設が本格化した。瀬戸大橋を通って、岡山や茶屋町と四国の丸亀や坂出とを結ぶ国鉄→JRの路線建設も決まった。そのため、児島にあった親類の家も立ち退きを余儀なくされ、移転することになったほどだ。

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翌年3月に瀬戸大橋開業を控えた、1987(昭和62)年の12月末、帰省のついでに下津井を訪れた。完成間近の瀬戸大橋を横目に、下津井電鉄の小さな電車が、いっぱいの乗客を載せて走っていた。

瀬戸大橋の開業に合わせて、橋のたもとにある鷲羽山には展望台が建設され、下津井電鉄は観光路線として乗客が急増した。そこで、零細企業とは思えない決断をしたが、まさかそれが命取りになろうとは、バブル全盛だったその当時、誰も予想していなかった。

下津井電鉄は、瀬戸大橋開業に合わせて、何十年ぶりかで中古ではなく、新造車両を投入し、いくつもの駅や施設が観光客向けにリニューアル整備されたのだった。

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しかし、瀬戸大橋が開業すると、観光客の大半が橋を渡って四国へ流れてしまい、乗客は再び減少した。下津井電鉄は瀬戸大橋を通る高速バスに参入したものの、安価なJRを利用する人が多く、こちらも利益が上がらなかった。

瀬戸大橋の建設が終わり、工事のために作られた道路が開放された結果、交通の不便さも解消された。鉄道を利用する地元の人もさらに減り、潤っていたバス事業も収支が悪化し、新造車両の減価償却費が重くのしかかった結果、鉄道部門は瀬戸大橋の開業からおよそ2年半後に廃止の憂き目を見ることになった。

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時を同じくして、祖母に続いて祖父が亡くなり、母方の実家が姿を消した。毎年、春・夏・冬と訪れていた、児島へも滅多に行かなくなった。

下津井電鉄の線路が消えた跡地は、サイクリングロードとして整備されたらしいが、まだ一度も走りに行けてない。

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